昭和43年9月26日朝の御理解


 昭和43年9月26日朝の御理解を頂きます。
X御理解第76節「人間は人を助ける事が出来るのはありたがいことではないか。牛馬は我が子が水に落ちていつも助ける事が出来た。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ。」

助けることが出来るのは、人間だけだと。ところがせっかく助けることが、それが本当の助かりならなければ、いけんと思うんですよ。それが本当の助かりにならなければ、助けることにならないわけですね。たとえば、お金に難儀しておられる。それを見て気の毒だと思うてお金を渡してまあ一応助けた形になりますけれども、中には貸して上げたことがその人をかえって難儀なことにしておるようなことの例がたくさんあります。そのことが今度は自分の助けられない元にすらなることがあります。これでははじまらないですよね。人を助けると思うて、貸してくださいとたとえば、金を借りるときはそうですよね。せっかく人と助けると思うて、貸してあげたんですけれどもね。貸して上げたことによって自分が立ちいかん様になり、その人も立ちいかん様になると言ったような助け方ではいけないんですよね。ですからね、ここんところに私はもう一度御理解に出ておるところの、最後のところに人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ。それを本当にありがたいと言うようになってから、行かなければ、本当にその方が助かってくださったことが実はそれが自分の助かりにまでなっていること。ありがたいと心得て信心せよ。自分の助かりではないと思うんです。助けると言うことにならないと思う。ああ、よかったよかった。あの人があんなに喜んでくれ、あんなに助かって行ってくださってある。とたとえば言うようにあると自分も助かってあるはずですよ。あの時に泣くようにいうから助けてやったけれども、ああいうことになって言うときには助けたことになっていない。そこで私は商売で助けるという事はね。いかに私が力を受ける徳を受け、その信心の徳と力とかをもって助ける登言うもんではなからなければ、いけないかと言うことを思うのです。力を受けられるとか徳を受けられると言うことは人間だけのことですから、人間だけが受けられる。力と徳をもって、そしてそこに難儀な人間、難儀な氏子を助かる事に一生かけてもよい。そこにありがたいものだなあと「ありがたいと心得て信心する。そういう力がついて行く。そういうおかげを頂けることがありがたいと心得て信心させてもらう。そこでそういう人も助かると言うことがどう言うような事であおうかと今朝76節を頂いてこの76節のどこを頂くべきだろうかと思ったんですよね。だから、今申したことを頂くんです。それには神様どのようなあり方にならせて頂いたら、本当の意味での人の助かり方になるだろうかと私は思わせて頂いたら、合楽の楽と言う字ですね。楽と言う字、真中に白と言う字が書いてあって横に糸へんの糸が書いてある。両方に書いてあって下に木と言う字が或る。それが楽と言う字、それを頂いてから、中の白と言う字がだんだん白くなってなくなって行くところを頂く。これはね、結局何にもないことを白紙にすると言うふうにもうしますよね。白に変えてしまうと言うとこう言う。ということは、どういうことかと言うと、いよいよ自分をむなしゅうすると言う心だと私は思うです。しかも木と言う。木は自分の心、自分と言うものをですね。いよいよむなしゅうする心、そこに天地に群がる天地に地に群がる両方に糸へんというもは、つながって行くと言うことに結ぶと思うんです。自分をむなしゅうするだから、助ける時なんかに、たとえば、条件なんかをつけたんでは、これはもう如何に間違いの台本ですね。助けてください。そうすりゃあ、私もお役にたつけんでと言うて、別に助けてやったような助け方は本物ではないです。条件なんです。一時はおまえにこうしてやったのに恩も忘れてというのは、助けたにはならないのです。助けると言うのは自分と言うものをむなしゅうしたもの、自分と言うものをなくしたもの。今、毎月の新聞にてつみ先生の無条件の信心と言うのがありますね。大変本当に信心も出来ておらなければならん、と思うですね。以後整然として、そして又次のお話がどう言うような事をかかなければと楽しみを持ったようないつも書いておりますよね。いわゆる無条件の信心、信心はこう言うようにはいかんのです。だから、先生は先生はあそこになると非常に学問的にもね、よくわかる。無条件の信心、金光様の信心は無条件の信心なのだ。どういうことに無条件になか。これだけ参ったから、これだけもらわならん。これだけしてやったけん、こげならねばいかん。あれを助けてやったけん。自分も助けてもらわならん。そういう条件がさまざまあってはならんということ。金光様の信心はそれであるんです。それに金光様の信心を頂いておって条件ばかりあるような信心をしておっては、いつまでたっても、だから、真実のおかげになってこない。もちろん人を助ける力などもつくはずがない。ですから、ここでは人間は誰でも助けられると言うことはね、人間は誰でも力が受けられると言うこと。人間は誰でも徳が受けられる。そうして人の難儀を見たら、助けてやれると言うことがありがたいとそこんところがありがたいのです。久留米の初代の石橋先生が小倉の桂先生がなくなられて後教会の責任を喪って見るものがなくなった。ああいう大変な先生がなくなられたんです。いうなら、真っ黒な感じです。時に選ばれなさってですね。久留米の初代の石橋先生が小倉教会のそっくりを兼務された。兼務教会会長として親教会なら親教会であります。小倉教会の御用を頂かれる事になった。それは久留米の信者としては大変だったことだろうとこう思いますね。先生がもうほとんど小倉には出られない。その時に石橋先生がおっしゃっておられることはですね。たとえ久留米の教会にですね。ペンペン草が映えるようになってもかわん」と言うておられます。自分の教会には自分がおらんために信者が参ってこん様になる。誰もそれにはかまわんようになる。けれど、教会がペンペン草が映えるようになってもかまわん。そういう一大決心を立てられて小倉教会が建ったんです。建ったと言うことは立ち入ったと言うことです。石橋先生が兼務教会になさったから、でけたんです。九州の本部と言われる小倉教会がそういう実績があった。甘木の初代は小倉で修業をなさる。皆一年一年中、二年も修業すると皆がいわゆる任務急ぎをする。おかげ急ぎをする。早くどこどこの教会へもうとにかく場所がよか場所がといったような事があったでしょうね。はあ、あそこの町に自分が出たいと思うわけでしょう。ですから、やはり先のお弟子さん方が次々とよかとこへ出ておられます。早く出たい。それはまあ人情です。福岡なんかはもう一年あまりの修業で出ておられます。それに甘木の安武先生だけは7年間も修業しておられます。何回も何回も出られる機会はあっただろうけれども、自分でも今ここの教会を出たら、ことかかれる事がある。だから、そういう自分の変わりの御用が出来るまではここの教会でがんばると言うて願ごうて7年間修業なさったわけなんですよ。それはどういう事を意味することか考えて見てください。久留米の石橋先生のところもそれこそペンペン草がたってもかまわんと言われた。久留米の教会がそれこそ一代御非礼が輝かされる様なおかげを受けられたことも事実であった。久留米の初代がそういうお徳を受けられた。自分のことは***自我というものがだんだんなくなった。もう自分と言うものはもう考えておられない。甘木だってそうであった。人間見も知らない甘木の町に布教に出られた。それに安武先生のところにもうそれこそ出られた。それに安武先生のところにもうそれこそ出られた途端にです。わんさと人が集まった。あまりのことにその皆が目をみはるばかりだったそうですけれども、どうして安武先生のところだけは安奈に人が助かるのじゃろうか。人が集まるじゃろうかと言うて不信に思う。人がたくさんあった。中にそれを聞いた人があった。桂先生に安武先生のところだけはどうして人が集まりますか。人が助かりますか。しかも全然見ず知らずの土地に行かれてから、そうであった。その時に桂先生がおっしゃった。「安武はのう、舞台裏の生活が長かったとおっしゃった。舞台裏、いわゆる像の下の力持ちの仕事を一生懸命したとこうおっしゃった。ですから、舞台に立っておらぬものは花道に出た途端にです。たとえば、花道を出て来た役者がひちさんで決まった。決まった途端にわーと声がかかったと同じだとおっしゃった。これなんかは今日私が申します人が助かるということはね、どういうことか自分が自分が力をつけにゃあならんところは、***どういうことかと言うとね、私はね、私どもがね、各々がね、自分が或る意味においては自分をむなしゅうして神の助かられる事に奉仕しなければ、ならないことです。まず人が難儀を助けることがありがたいけれども、神の働きが働きとして十全足らしめるために神様の願いであるところの働きがです。スムーズに行くことのためにお互いが奉仕する信心、言うならば、自分の持ちが場、立場と言うものを自分でははっきり作って行く。私は昨日立場と言うものを自分ではっきり作って行く。私は昨日皆さんを送り出して表に出てこの両の中、いつも表をきれいにしておるんですよ。**この頃関さん親子が毎朝あそこをきれいに洗ってここを拭きよなさいます。そしてこれはいうなら、親子でこの御用をさしてもらう。毎日毎日それをなさる。***私は初めてそれを知りました。ですから、たとえば、これだけたくさんの人が総代幹部、それぞれ受け持っておる。もし役がなくても自分でそういう役を自分で受け取らなければ、いかんですよ。これだけは私はさしてもらう。ここは人が助かるところの場である。神様がご活躍くださるところの場である。そこを例えば、朝の**神が助かられることのためにまたは神様が働きをなさるために奉仕する心、昨日信徒会がございました。***ところの秋の例祭でもございましたから、婦人会を久留米教会でと言うことでございましたから、**研修会にいつも出られる方はまあほとんど北野教会にいっただろうと思います。行ったものは委員長はじめ久富さん、大和さん、堤さんが行かれた。特にたとえば、大和さん、久富さん委員長はもちろんですけれども、もう神道推進委員会ですか。あの会が出来るときに二人はそういう志度の立場にたたんならんと言う役目を受けられた。もう二人はそれほどにしてどこの会にも行かれる。福岡も当然必ず、行かれる。まあ本当に正式にここでは共例会としてあつはならん。たとえば、その佐田さんところでも毎月やっておられる。そのところへでも行かれる。これは二人とも本当に****大和さんにしろ久富さんにしろ、けれども自分の持ち場と言うものをそこに神様から頂かれた持ち場立場というものを思えば、そうしなければおられないという生き方、お互いがたとえば役を頂いておるけれども、その役がまっとうされておるだろうか。最近記念祭が近づきよるが、その記念祭促進というかね。いよいよおかげを頂くための準備がだんだん出来ておるが、そのお互いがしよう心打ち込んで御用をさせて頂いておるか。神様が助かられる事のためにまあ大げさにいうなら、ためにお互いが何かの役にそこに見いだして頂いてです。勢を打ち込んで行くといったような生き方こそ、私は自分をむなしゅうしなければ、出来ないのです。**励行、時間は励行ばってん。自分はそうは出来んというようなことですね。私はこの76節の本当の真意の人を助けるという事は出来ることではないと、。助かるためにはまず、私どもが助けれるだけの本当の力を頂かなければならない。力なしに助けるわけにはいけません。助ける力を頂かなければならない。いうなら、その助ける力と言うものもです。自分は助けた気持ちでおるけれども、かえって助かっていないような事になっておるようではいけないから、ここにこれなら、間違いないと言うこと。これなら、間違いないと言う助かり方、それは私は神の働きが働きとしてのです。なされる事のための奉仕だと私には思いますね。これならば、間違いないです。絶対です。自分のね。捕えておる役割をええかげんにするような事ではおかげを頂くはずがないです。勿論人を助けるだけの働きも出来るはずは勿論ありません。いわゆる持ち場、立場と言うことを言われるがお互いが持ち場立場を本当に自覚して***言うもんじゃなくて銘々がこれだけはというものを自分で私は作って自分で探し出して、これならば間違いがないと言う働きのために奉仕しなければならんと私は思うです。そういう御用をさせて頂くと言うことがです。ありがたいと心得て信心させてもらう。そこには自分には気がつかんなりに人を助けると言う働きが間違いなくなされていく。最近はね、そういう働き、そういう言うならば、神の用を足せば、氏子の用は神が足してやるとおっしゃるのはね。これはどういうことかと言うとね。神の用を足すと言うことによって力を受けるから、その力が自分のところの用をなされてきよることです。徳を受けるから、神様のことほうからかしてさあ自分の事をしよるから、**
それはそれだけでしょうが、今神様合楽ではね、もう、いうなら、そこんところだけを尊んでおるというてもいいです。言うならば、お徳を受けると言うことなんです。力を受けると言う事なんです。そのためにはどう信心させて頂いたらよいか。どういうことかと言うとそのためには本気で人の助かる事のための間違いのない力を頂こう。それには自分をいよいよむなしゅうして、自分をむなしゅうして自分の持ち場をはっきりして行こう。それがそうさせて頂くことをありがたと心得て信心させて頂こう。とたとえば、言うようなことをです。いっぺんお腹の中によく入れておいて、そしてこの76節をもういっぺん頂いてもらう。この表面に出ておるだけはただ人を困ってござるところ助ける。ところがそれがですね。果たして本当に相手の助かる事になっておるか。又、それが自分の助かりにつながっておるか、本当に神様の喜びにつながっておるか。神様の喜びにつながっていない。自分の助かりにつながっていない。相手は助かっておる。ごだるけれども、それが本当の助かりになっていないとするならば、そういう意味での助かりでは駄目だ。ここんところを頂くとそういうことの助ける事の出来ると言うふうに感じられるのですけれども。それでは人を助けることにならんでしょうが。ですから、本当に助けることにはならんでしょうが。ですから、本当に助かると言うことのためには今日私が申しました様なところをですね。一つ内容としての人の助かることの出来るそういう信心を一つ頂かねばいけません。「人間は人助けることが出来るのはありがたい事ではないか。牛馬は我が子が水に落ちていても助ける事が出来ぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ。」病気災難の時、助けてもらうから、とこう言うてある。ということは、どういうことかと言うとね。私どもがね、本当に神様のお喜び頂ける。いわゆる神の用を足してと言うようなところから、氏子の用は神が足してやると言うような事が出来るのじゃないか。それが出来るのが人間だ。だから、人が助かる、助かると言うことがありがたいと心得て信心せよ。その間違いない助け方というならば、まず、自分をむなしゅうして自分たちの持ち場、立場というものをしっかり頂いて把握して本気で人の助かる事のために奉仕させてもらう。なかなかそれは難しいことです。けれども、事それが大きな神様のお働きがですね。十分にお出来になることのために奉仕する。これなら、一番間違いのない太鼓をたたくような間違いないです。これなら、そこんところをですね。一つ今日は頂いて頂きたいとこう思うんです。どうぞ。